第四次発掘調査に参加菊川 武二さん
昭和7年(1932)生まれ
登呂遺跡発掘調査時:静岡県立藤枝東高校1年生

藤枝東高校郷土研究部に参加したきっかけ

藤枝東高校の1年の時、郷土研究部があって考古学などが好きな人が入った訳です。ですが、僕はどこにも入る所がないから入ったようなものです。そのころは、考古学と言ってもどういう学問かよくわからないし、後藤守一先生の黄色い表紙の本、表紙には土器とか古墳とかそういう絵があったと思いますが、それで勉強するしかなかったです。

藤枝東高校郷土研究部

部員は10人くらいでしょうか。そういうのが好きな人はものすごく好きで凝ったりして。本を見ながらだんだん、これは縄文、弥生と紋を見ればわかるようになってきて、特に石錘、石斧、そういうものを見てためた訳です。 また、機関紙 を発行していました。あとは、弥生・縄文以外に田んぼでねずみ色の須恵器、土師器も見つけました。 その頃は家の人に「家が忙しいのに何でそんなくだらないものを拾いに行くんだ?」と言われました。説明してもわからなくて、あまり褒められませんでしたね。

※:藤枝東高郷土研究部発行「釧」

登呂遺跡発掘調査に参加したきっかけ

郷土研究部の岡部先生の影響と、学校の中に「登呂遺跡の発掘に参加できる人はいらっしゃい」というのがありました。今のように、新聞などに出てということではないでしょうね。だから私たちと一緒に参加したのも二人か三人です。学校として行ったということではありません。

発掘調査への参加ペース

夏休みだったので、10日くらい行きました。参加したのはこの年(昭和24年)だけだと思います。1年生の時だけ。

発掘調査時の交通手段

(一緒に発掘調査に参加した人と)焼津駅で落ち合って汽車で来ていました。島田、焼津あたりから藤枝東へ通っていました。どこかで手や足は洗いましたが、風呂に入るなどということはなく、そのままバスと電車に乗って帰りました。家に行っても発掘の話の通じる人が居ないから寂しかったです。ここ(登呂遺跡)からバスに乗って新静岡駅へ行きますが、その時混んで座れなくて、バスのガラスを割ってしまって、運転手にひどく怒られたことがありました。

発掘調査時の役割

参加しても、住居などの発掘は主な人が行くので、私たちは田んぼの発掘だけでした。土器が出てきたとか、錘が出てきたということはないので、発掘そのものはあまり記憶には残っていないです。この頃は、掘っていても、何がどうなっているかもわからず、夢中でただ掘っていました。「これが水を止める堰だ」などということは後で知りました。全体像がわからなかったです。 (発掘調査時、担当場所に)女性はいなかった。住居の方にはいたかもしれませんが。 登呂遺跡がどういうものであるとか、概況など先生の講義があった上で「発掘しましょう!」ではなかったから、来たらどんどん「ここをやってください」と言われるままに掘っていました。

菊川さんが参加した発掘調査の様子

発掘調査時の食事

家から弁当を持ってきてお寺で食べていました。農家だったので米などを自分で作っていました。

発掘調査で苦労したこと

ただただ指示どおりにやっていたので、苦労ということもなかったですね。途中でサボったり、お昼で帰ったりそういうこともしなかった、皆真面目でしたね。必死にやっていました。

発掘調査参加後

専門家になろうという気持ちは全くなかったです。学問として存在するということも知らなかったです。先生も転勤などで居なくなるし、そういうところまでは指導しなかったので。

登呂に来て蘇ってくる思い出

随分きれいになりましたね。ドロドロのところで発掘していたのに。高床、竪穴という言葉も発掘しないとなかなか覚えない言葉ですね。静岡は登呂遺跡があって、新しいビルがどんどん出来てきて、価値がありますね。登呂が無かったら歴史がなくなってしまう、登呂が街の中にあるということは貴重ですね。どんなに立派なものができても、登呂があるからそこから出発しているという原点ですね。そういう意味では価値がありますよね。

一覧へ戻る